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    海渡雄一 脱原発弁護団全国連絡会共同代表

原発訴訟の歴史は「はんげんぱつ新聞」からの転載で編集部と海渡弁護士のご厚意による

       

 

 原発訴訟の歴史⑦

 

浜岡原発敗訴判決が、3.11後の提訴の原動力となった

 

 浜岡訴訟では、国の中央防災会議の予測による「想定東海地震」を超えるような、さらに大きな地震が起きるかどうかが大きな争点でした。静岡地裁は「想定東海地震を超える地震動が発生するリスクは、依然として存在する。しかし、このような抽象的な可能性の域を出ない巨大地震を、国の施策上むやみに考慮することは避けなければならない」と判決しました。伊方判決の「万が1にも、大事故を起こしてはならない」という見解とは対極の判断になっています。
 石橋克彦さんは、判決が出たあと、記者に対して「この判決が間違っていることは、自然が証明するだろうがそのとき私達は大変な目に遭っている恐れが強い」と言われました。福島原発事故は石橋さんの危惧が現実のものとなったものです。

 全国弁護団結成

 福島原発事故が発生した祭に、私はこれまでの原発訴訟のために傾けた努力が無駄であったかのように感じ、ひどい無力感に襲われました。しかし、5月には浜岡原発の運転が当時の政府の主導によって止まり、浜岡訴訟の弁護団長の河合弘之さんの呼びかけで、夏には脱原発全国弁護団が結成されました。
  福島原発事故が発生した際に係属していた原子力訴訟は六ヶ所核燃料サイクル施投訴訟、浜岡原発訴訟、島根原発訴訟、大間原発訴訟、玄海プルサーマル訴訟などでした。その後、2011年5月27日に静岡地裁浜松支部に、同年7月には静岡地裁に次々に浜岡原発の運転差し止め訴松が提起されました。次に滋賀で2011年8月に福井の原発の運転停止を求める仮処分が申したてられました。2011年11月には泊原発、12月には伊方原発、2012年1月には玄海原発、3月に大飯原発3・4号の運転差止の仮処分命令申立、4月に柏崎刈羽原発、5月に川内原発、6月に志賀原発、7月に東海第二原発、11月に大飯原発でそれぞれ提訴がなされています。
 そして福井地裁で2014年5月、私たちが望んでいた司法の判断が下されたことは連載の最初に述べたとおりです。

 全国原告団も結成

 高浜原発、川内原発など再稼働の迫る原発に対しても訴訟・仮処分が提起されています。政治が脱原発への舵を切れず、足踏みする中で、原発訴訟は脱原発を進めるための有力な手段となっています。全国原告団も2014年9月に結成されました。今後とも、全国の原発訴訟にご支援をお願いいたします。

 

原発訴訟の歴史  ⑥


 浜岡原発判決の誤りは 福島の悲劇を生み出した

 

 国の判断を追認した志賀2号控訴審判決

  福島と浜岡は、原子炉の構造が沸騰水型原子炉であること、どちらもプレート境界地震が起きる場所にあるということで、非常に状況が似ています。原発の耐震性や安全性について、専門家による科学論争が法廷で繰り広げられました。
 私たちは、制御棒が入らず原子炉が止まらない可能性を指摘していました。福島原発では、沸騰水型でも制御棒がうまく入って、原子炉の運転が停止できましたが、震源が遠く、横揺れの地震動が来る前に停止操作ができただけで、直下地震の場合は停止できない可能性があります,
 重要配管が破断して、炉心溶融する可能性も重大論点でした。再循環ポンプというのは数1トンの重みがありますが、それを支える配管は丁字型になっています、縦揺れの大きな振動がきたら、この部分に巨大な力がかかります。耐震設計で計算してみると、やはりこの部分がいちばん危ないとわかりました。

 2012年7月に公表された国会福島原発事故調査員会報告書は、1号機で、津波到達前に4階フロアーに出水があったこと、津波到達時到達前にディ一ゼル発電機がダウンしていること、蒸気逃し安全弁の作動時には「ドーン」という大きな音がするはずなのに、1号械だけで聞かれなかったことから、配管断裂を強く疑っています。

 班目証言と判決

 外部電源と非常用電源とも使えず、長時間停電はする可能性も大きな争点でした。想定を超える地震動が原発を襲えば、電源ががすべて喪われる可能性があります。案の定、東日本大震災では、鉄塔は倒れ、2台ある非常用ディ一ゼル発電気もすべてダメになりました。

 2007年2月の静岡地裁の証人尋問で、東京大学教授だった班目春樹さん(のち原力安全委員長)に地震の時に「非常用ディーゼル発電機や制御樺など、重要機器が2台とも動かなかったら、どうするのですか」と追及したことがあります。班目さんは「そのような事態は、想定していない。そのような想定をしたのでは、原発はつくれないから、どこかでわりきらなければ、原子炉の設計はできなくなる」と回答しました。


  判決では「原告らが主張するような複数の再循環配管破断の同時発生、非常用ディーゼル発電機の2台の同時起動失敗等の複数同時故障を想定する必要はない」として、敗訴となってしまいました。司法の責任は重大といえるでしょう。
           (次回完結)

 

原発訴訟の歴史  ⑤


志賀2号逆転敗訴 そして運命の浜岡原発判決へ

 

国の判断を追認した志賀2号控訴審判決

  2009年3月、名古屋高裁金沢支部は、志賀原発2号機を動かしてはならないと命じた金沢地裁の一審判決を取り消しました。その判決理由は「指針を改め、新しい指針に照らし合わせて、もう一度安全審査を実施し『国が安全だと判断した』。その判断に、誤りはない」という論理で、原告側が負けてしまいました。
 つまり、司法は、国の判断に追随してしまったということです。また、原告らが指摘していた、新しい指針の持つ問題点やいくつかの断層が連動して活動することによる危険性などについては、真摯な検討はされませんでした。原告の上告も、最高裁によって、棄却されました。
 この指針の見直しによって、想定される地震の規模は少しは大きなものになりました。でも、その裏で「地震が起きても、原発はそれほど壊れない」という計算上の「ごまかし」が行なわれている、とわたしたちは思っています。このごまかしに一役買ったのが入倉孝次郎氏らを筆頭とする強震動地震学、地震工学という分野の学者たちで、地震で発生する事態を予測して「地震の規模は
大きくなっても、原発はそれほど壊れない」というレポートを量産しました。それを根拠に、判決がひっくり返ってしまったのです。

福島の悲劇に直結している浜岡原発訴訟

 福島の悲劇につながる原発裁判の数々の判決の中で、もっとも罪が重いものはどれかと問われれば、私はためらいなく、浜岡原発訴訟の一審の判決だということができます。
 浜岡原発運転差止訴訟は2003年7月に提訴され、2007年10月の静岡
地裁の一審判決で、私たち原告側の敗訴判決が下されています。
 浜岡原発は東京から185キロの距離にあり、プレートの境界が陸域に入り込み、福島事故前の政府の想定でもマグニチュード8を超える地震が、現在の想定ではマグニチュード9の地震が起きるとされる震源のわずか15キロの真上に建設された原発です。この訴訟は原発の耐震性や安全性について、科学裁判となりました。石橋克彦氏、田中三彦氏、井野博満氏らが原告側の依頼によって法廷で証言しました。
 浜岡原発訴訟の場合、わたしたちは完壁に立証できていましたし、そのことは判決文を読んでもわかります。ただ、判決の論理が間違っていたのです。次回には、何が間違っていたのか、詳しく見ていくことにしたいと思います。

 

 原発訴訟の歴史  ④


もんじゅ最高裁逆転敗訴から志賀2号金沢地裁勝訴へ

 

  2005年5月、もんじゅ訴訟は、最高裁で逆転敗訴となりました。「高裁の事実認定をくつがえす、という禁じ手を犯した」とわたしは認識しています。たいへん罪が重いと考えています。
  もんじゅ訴訟の場合、安全審査の過程に明らかな間違いがありました。しかし、最高裁は、「安全審査の過程に間違いがあったかもしれないが、あとから動燃が実験して出してきたレポートのデーターをみると、一応、ギリギリセーフになっているから、違法性がない」という判断でした。
 そして、高裁判決が認定していない事実を最高裁が勝手に書き加え、これと矛盾する高裁の認定事実は全て無視しました。本来なら高裁の事実認定に疑問があれば、最高裁は破棄して差し戻し、高裁に審理をやり直させる事もできたのです。この判決には当時、行政法学者からも厳しい批判がありました。

 もんじゅは1995年の事故以来14年以上停止し、運転再開直後の2010年8月に炉内中継装置の落下事故をおこし、未だに停止したままです。

志賀2号訴訟と耐震設計指針

 私の担当事件ではありませんが、重大な事件なので、志賀原発2号機訴訟についてみてみましょう。3.11前にふたつしかない原告勝訴判決のひとつです。
 地裁で審理中の2001年7月、政府は耐震設計の審査指針の見直しをはじめました。それを担当したのが「耐震指針検討分科会」です。原告は、その委員でもあった石橋克彦さんが作成した陳述書をもとに議論を展開しました。北陸電力側は「旧耐震設計指針は正しい、見直す必要などない」と主張しましたが、どれほど裁判所を甘く見ていたかということがわかります。  2006年3月、金沢地裁で原告が勝訴しました。判決では「政府の地震調査委員会が、原発近傍の断層帯でマグニチュード7.6程度の地震が発生する可能性を指摘していたが、被告はこれを考慮していない」という原告の主張が全面的に認められました。
「政府が『古い指針はだめだ』から、新しい指針をつくろうと審議中なのに、『古い指針はよい』と言っているのだから、これがだめなのはあたり前です」と井戸謙一元裁判官は説明しています。
 国は、裁判で負けてあわてて、新指針の作成を急ぎました。2006年9月に「原子力発電所の耐震設計審査指針」が改定されましたが、その内容に異議ありとして、石橋さんは6月に委員を辞任しています。

 

原発訴訟の歴史③


伊方最高裁判決の限界ともんじゅ控訴審での勝訴

 伊方判決には大きな限界もあった。調査審議及び判断の過程に看過し難い過誤欠落がある場合、すなわち、安全審査の中に見落としや間違いをはっきりと見つければ、そしてその結果が見過ごすことができない状態ならば、その事故が必ず重大な事故につながり得るところまで立証できなくても安全審査は間違っていたのだから、もう一回やり直してくださいと言えると読める。伊方判決は原発訴訟で原告側が勝てる道筋を示した。


 しかし、安全審査の対象を基本設計事項に限定して詳細設計を除外した。また、安全性に関する調査審議の予続きについて、行政の判断を尊重しなければならないとした。この基木設計論と、専門技術裁量論が、その後の裁判所が思い切った判断ができなくなる、重い足かせとなっていった。
 初めて原告勝訴の判決が出た「もんじゅ訴訟」について紹介する。
1985年9月に提訴され、2003年1月の名古屋高裁金沢支部での控訴審判決では、原告の主張を正面から認め、原子炉設置許可処分の無効を確認する判決下された。その間の1995年12月には、もんじゅのナトリウム漏出による火災事故が起こっていた。勝訴判決の理由は、安全審査の過程で、3点について違法が認められたことだ。


  高速増殖炉のもんじゅは、ナトリウムと水の問で熱交換をする。そのナトリウムが漏れたときに鋼鉄製のライナー(建屋の床に敷き詰められた鋼鉄の板貼り)と反応して穴が開き、さらにナトリウムとコンクリートが反応して建物が維持できなくなるような大きな火災が起きる、という重大な現象が見落とされていた。
 2つめは、安全審査では、蒸気発生器の伝熱管破損は「4本しか破断は広がらない」と言っているが、動燃が1981年に行なった実験では、同時に25木が破断する事態が起きていた。英国で起きた同様の事故を手がかりに、小林圭二さんが世界中の文献を調べていく過程で、わかったのである。国の予算を何億円も使って実施したにもかかわらず、動燃はこの実験のデータを科学技術庁にすら報告していなかった。
 3つめは、高速増殖炉で最も大きな被害が予想される事故として、炉心崩壊事故についてもシミュレーションをしていながら、動燃がその結果を隠していたこともわかった。


  もんじゅ訴訟の勝訴判決が最高裁で確定していれば、その後の原発訴訟はもっと活発なものとなっただろう。でも、そうはならなかった。

 

原発訴訟の歴史②

伊方最高裁判決の成果

  原発訴訟の歴史を語るとき、伊方原発訴訟から語ることに誰も異論がないだろう。この訴訟は、1973年8月、伊方原発1号機の設置許可取り消しを求めた住民33名の原告によって提訴された。原告側の支援に大阪大学の久米三四郎さんや小出裕章さんたち京大原子炉実験所グループが立ち上がり、その鋭い立証によって、国側の安全神話は崩れかけようとしていた。私自身生涯原発訴訟を担当する弁護士になろうと考えた直接のきっかけは、1977年4月に行なわれた、東大自主講座「公害原論」で久米三四郎さんの伊方訴訟報告を聴いたことである。

 1978年4月の松山地裁では、原告の請求は棄却された。最高裁は、一審判決直前に、証人尋問を担当した我判長を配転した。訴訟への介入が疑われる事態であった。一審判決の際に原告団が掲げた「辛酸入佳境」の垂れ幕は今の福島に直接つながる。その後、スリーマイル島原発事故がおきたものの、1984年の高松高裁でも敗訴となる。  チェルノブイリ原発事故が起きたものの、1992年10月に最高裁で敗訴判決が確定した。

 もんじゅ訴訟を進める過程で、住民側の補佐人を務めた久米さんが
「最高裁で出た判決なのですから、きちんと読んでみましょう」と言われた。みんなで読んでみると、なかなかよい部分もあるとことがわかってきた。

 まず、原発の安全審査の目的は、安全性が確保されない時は、従業員や周辺住民等の生命、身体に重大な危害を及ぽし、周辺の環境を放射能によって汚染するなど深刻な災害を引き起こす恐れがある、そのような災害が万が一にも起こらないようにするためのものであるとされている。次に、現在の科学技術水準に照ら して安全審査の過程に見逃すことができない過誤や欠落があるかどうか を判断するべきだと書かれている。通常の行政法の理論では、「その処分が違法だったどうか」は、その処分をしたときに、処分したひとが知っていた事実をもとに判断すれば十分だと判断されかねない。

 しかし、地震学や地震関連分野の科学的進歩は著しく、数年で科学的な知見の内容は大きく変わる。日進月歩の時代に、古い科学技術水準を基準にしていたら、原発の安全性は保てない。したがって、現在の科学技術を基準とするべきことがこの判決で、明確に決まったのである。
 もし、この判決がなかったら、もんじゅ訴訟や志賀原発訴訟で、原告が勝訴することはなかったと思う。

*
 伊方判決の持っていた限界についは次回に論じたい。

 

原発訴訟の歴史①

大飯原発差止 福井地裁判決の覚悟

 2014年5月21日、私は福井地裁の大法廷で大飯原発差止判決を聞いた。13年2月15日、この裁判の第1回期日において私は、弁護団を代表して意見陳述をする機会を与えられた。原発訴訟の歴史を総括した20分の意見陳述の最後に私は、「裁判所は過去において国策に屈して正しい判断ができず、福島原発事故を回避できた機会を失した痛苦な経験を自らの責任として真摯に反省」するべきだと述べ、「二度と同じ過ちを繰り返すこと」のない判断を強く求めた。

 判決は、まず「福島原発事故においては、15万人もの住民が避難生活を余儀なくされ、この避難の過程で少なくとも入院患者等60名がその命を失っている。家族の離散という状況や劣悪な避難生活の中でこの人数を遥かに超える人が命を縮めたことは想像に難くない」と認定している。

 そして人の生命を基礎とする人格権について「我が国の法制下においてはこれを超える価値を他に見出すことはできない」と、もっとも重要な権利であることをはっきりと認め、原発に求められる安全性について、原発の稼働は経済活動の自由という範疇にあり、人格権の概念の中核部分より劣位に置かれるべきだと述べ、「大きな白然災害や戦争以外で、この根源的な権利が極めて広汎に奪われるのは原子力発電所の事故のほかは想定し難い」とし、福島原発事故のような事態を招くような「具体的危険性が万が一でもあれば」差し止めが認められるのは当然だと述べている。

 判決は、基準地震動の設定方法そのものに疑問を提起し、「現に、全国で20箇所にも満たない原発のうち4つの原発に5回にわたり想定した地震動を超える地震が平成17年以後10年足らずの問に到来しているという事実を重視すべきは当然である」という。判決は誤りが重ねられた理由については、学術的に解決すべきで裁判所が立ち入って判断する必要がないとしつつ、「地震という自然の前における人間の能力の限界を示すものというしかない」と判示している。実際に過去に誤りを重ねてきたという誰にでも理解可能な「実績」を重視し、それと同じ手法が根本的に見直されることなく用いられている以上、また同じ過ちを犯すかもしれないではないかという論理は簡単に覆せない強さを持っている。
 これは3.11後に私たちが求めた、二度と事故を起こさせないという司法の覚悟のほどを示した判決だと評価できるだろう。
     *
 この大飯の判決に至った原発訴訟の歴史を、今回を含めて6回連載でお届けする。